人間の「ウェットな部分」のデジタル化に見出した可能性。デジタル身体性経済学に迫る

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VRやARといった技術の発展により、人々の身体情報がプラットフォーム上に流通するような未来が実現したら、私たちの暮らしや行動はどのように変容するのだろうか。明治学院大学経済学部の犬飼佳吾准教授らによる研究チームが取り組む学術変革領域(B)「デジタル身体性経済学の創成」では、行動経済学、心理学、脳科学、情報学などを専門とする研究者が領域を横断し、そんな未来における新しい行動経済学を探究している。

経済学を専門とする犬飼氏は、人間の持つ「ウェットな部分」に注目し、身体感覚のなかでもとくに「触覚」のデジタル化に関心を寄せる。「身体感覚がデジタル化される」とはどういうことなのか、その実現にはどんな新しい可能性があるのか。研究の背景や現状とあわせて犬飼氏に話を聞いた。

犬飼佳吾

「ウェット」なものを扱う経済学をつくりたい

─聞き慣れない言葉ですが、そもそも「デジタル身体性経済学」とはどのような学問なのでしょうか。

犬飼:ざっくりと言えば、「触覚」のようにデジタル化があまり進んでいない身体感覚をデジタル化することで、人々の意思決定や経済活動がどのように変化するかを研究する分野です。身体感覚のデジタル化というのは、物の質感や触感、人に触れる感覚などを情報に変換し、デバイスなどで再現できるようにすることです。

たとえば、ここに「心臓ピクニック」というデバイスがあります。聴診器を胸に当てて心音を拾い、それを「振動子(心臓ボックス)」を使って変換することで、手から振動を感じ取れるようにするというものです。これを使えば他人の心臓の鼓動を手で感じることもできますが、振動が増幅されていることもあってどこか生々しい感じがします。渡すほうも受け取るほうも少し恥ずかしいんですよね。

「心臓ピクニック」

犬飼:こうした「デジタルに扱える身体性」が自分たちの経済活動や消費行動にどのような影響を与えるのかを調べるのが、デジタル身体性経済学のひとつのテーマです。たとえば、ある人の事業に出資するときに、このデバイスでお金を貸す相手の心臓の鼓動を感じていたら、出資しようと思う金額が変わるかもしれません。そのような人間の非合理性に興味があるんです。

─経済学というと、どうしても統計や数理モデルなどを用いたドライな研究をイメージしてしまいます。

犬飼:ぼくがもともと専門としていたのは経済学のなかでも「行動経済学」と呼ばれる分野です。これは人々が経済活動においてどのように意思決定や行動を行なうのかを研究するものです。人間の習性を分析する点では心理学に近いと言われています。

この分野を長年研究していて気づいたのは、人間は経済学のモデルどおりには動かないということです。経済活動は損得を争うゲームなので、本来は将棋などのテーブルゲームと同様、最適解を理論的に導けるはずなんです。でも実際には「得だとわかっていてもそうしない / できない」ことが多かったりして、なかなか理論どおりの結果にはなりません。それは、人間がウェットな身体や感情を持っているからだと思うんです。

─本来ドライなはずの経済活動への関心を突き詰めていった結果、「ウェットな身体性」にたどり着いてしまった。

犬飼:まさにそんなイメージです。そこから身体性や触覚、ロボット工学などを専門とする研究者たちと共同研究をするようになり、それが「デジタル身体性経済学」につながっていきました。単なる身体性ではなく「デジタルな身体性」に興味を持ったのは、身体感覚をデジタルな手段で増幅させるとどうなるのか気になったからです。「心臓ピクニック」もまさに、鼓動の感触をデジタルに変換し増幅させることで人間のウェットな感覚を喚起する装置といえますよね。

デジタルの扱う感覚は、視聴覚から触覚へ

─そうした身体感覚のなかでも、とりわけ「触覚」に着目されているのはなぜでしょうか。

犬飼:デジタル化したときのインパクトが大きいように思えるからです。いまの情報社会は、文字や映像、音声といった視聴覚をベースに成り立っています。その理由は、触覚や嗅覚、味覚といった、何らかの記号を介さない直接的な感覚をデジタル化するのが困難だからでしょう。でも困難だからこそ、デジタル化によって生まれる変化も大きいはずです。

再び「心臓ピクニック」の例を出すなら、鼓動の情報はあのデバイスに保存することもできるんです。すると手元で保存した鼓動を、遠く離れた場所にいる人に伝えることもできます。あるいは、生前に記録した心音を、亡くなったあとに誰かが感じることも可能になります。本来はそのときにその場所にいないと感じられないはずの感覚を、時間と空間を超えて届けられるところにデジタル化の意義があるんです。

─VR技術にも通ずるものがありそうです。VRデバイスが再現するのはあくまでも視聴覚ですが、仮想空間のなかで人に触れられると、実際に肌に触られたかのようなリアルな錯覚を起こしますよね。

犬飼:それも一種のデジタルな身体性といえると思います。現在のVRでも、たとえば手元のスティックに振動などの触覚的なフィードバックを入れると、一気にリアル感が増幅されることがわかっています。また、VRのアバターにカブトムシの角をつけて、そこに触覚的なフィードバックをつけると、本当に自分に角がついているような感覚を味わえたりもします。ただ、それはあくまでも錯覚に近い感覚だと思うので、自分としてはもう少し実際の触覚について考えてみたいんです。

といっても、もちろん自分はもともと触覚の専門家というわけではないので、周りの研究者から多くの影響を受けています。たとえば周りの心理学系の研究者は、皮膚がザラザラする感覚を感じたときの脳活動を計測したり、感じ方の違いがどこから来るのかを調べたりしています。計数工学やロボット工学の研究者は、遠隔手術ロボットなどをつくるために、触覚についての探究を進めています。ロボットを操作する際の感触をどのように再現するかは重要な問題ですからね。

私たちの共同研究で開発したもののなかには、伝統工芸の職人の動作や力加減を記録して、それをグローブに出力することで追体験できるようにするデバイスなどもあります。他にも、嚥下が難しくなってしまった人でも食べ物の感触を楽しめるように、食べるときの触感をあごや喉から伝えてあげるようなデバイスをつくっている人もいますね。とにかくさまざまな専門分野にまたがるので、共同研究でないとなかなか進まないというのが実際のところです。

「デジタル身体性経済学の創成」ウェブサイト(外部サイトを開く

身体感覚の共有が可能にする、新しいつながり方

─触覚のデジタル化は、これからのコミュニティーや社会のあり方にどのような変化を与えるのでしょうか。

犬飼:まだ具体的なイメージはありませんが、「触覚をベースにしたSNS」を考えてみるのは面白いと思います。いまのSNSは基本的に視覚情報ベースで、親和性の高い人と出会いやすくなる反面、自分と違う意見の人たちにうまく出会えなくなる可能性もありますよね。もし今後「触覚」をベースに、感覚を共有ないし交換しあうようなサービスが生まれたら、意見や立場の異なる人と関係性をつくりやすくなるかもしれません。

一方、触覚はとてもプライベートなものでもあります。同じように肩を「トントン」と叩く行為でも、好きな人にやられるのは平気だけど、嫌いな人にやられるのはゾッとするということもあると思います。触覚は双方向性が強く、感情価も高いコミュニケーションであることに留意する必要があるでしょう。

つまり見知らぬ相手との触覚的なコミュニケーションには、危険やリスクもあるということです。本当に触覚というプライベートな感覚を流通させてよいのかを検討することも大切ですし、行動経済学者としては「どうしたらデメリットを減らし、ポジティブな運用ができるか」についても考えていきたいです。

─現状、何か仮説や手がかりはあるのでしょうか。

犬飼:明確な答えはまだ見つかっていませんが、「遊び」はひとつ鍵になるかなと思っています。視聴覚ベースのネット社会はスマートでスムーズな情報のやりとりのために、無駄をそぎ落とす方向で発展しています。でもそうした効率重視の設計はじつは人間のウェットな部分と相性が悪くて、それによってSNSでコンフリクトが生じやすくなっているのかなと。

それに対して触覚というのはある意味ノイズや無駄な部分です。それをデジタル空間に実装するなら、その無駄を遊びとして楽しめるようなかたちで取り入れられるといいのかなと思うんです。それこそゲームは良い例ですよね。『ポケモン GO』なんかは、リアルとバーチャルを連動させることで、現実空間の良い意味での面倒くささをうまくゲームに組み込んでいる。しかも純粋に遊ぶのが楽しいので、人が集まって自然にコミュニティーができていく。理想的なあり方だと思います。

デジタル身体性を活用したコミュニケーションで、従来の障壁を乗り越える

─犬飼先生はたびたび「人間の持つ利己性の乗り越え」ということをおっしゃっています。「デジタル身体性経済学」では、この問いをどのように考えるのでしょうか。

犬飼:これまでの話とも重複しますが、従来のマーケットから取り残されてしまった人たちにアプローチする方法を考えるべきだと思います。ウェットな身体性を持つ私たち人間は、必ずしもみんながつねに健康な状態でマーケットや社会に参加できるわけではありません。人生のなかで調子の良いときもあれば、悪いときもある。そこでお互いをサポートしあえるような社会をどうつくれるか、というところに関心があります。

たとえばいまはリモートワークがだいぶ浸透しましたが、この状況は結果的に「リアル」の意味を問い直す機会になったと思うんです。今日は対面での取材ですが、こうやって物理的な身体を移動させてひとつの場所に集まる意味はどこにあるんだろう。この問いは、コロナによってそれができなくなったことで初めて真剣に提起されたとも言えます。同じように、「デジタル身体性」による身体性や空間性のシミュレーションは、これまで社会や市場が自明視してきたものを問い直す役割を秘めているんじゃないかなと。

─リモートワークの例でいえば、対面でないと生産性が落ちてしまう種類の仕事もあったわけですが、それも一度リモートになったことで初めて気づけたわけですよね。

犬飼:まさにそうです。いろいろな状況や身体のあり方を体験できるようになることで、気づける問題がたくさんあるはずです。

また、経済学の視点で問うからこその意味もあると思います。「他者のことを想像しましょう」では抽象的すぎて届かないけど、「ビジネスの機会を逃してしまうよ」という伝え方なら世の中は動くかもしれない。もっと日常的な場面でも、「あの人に声をかけるのは気が重い」みたいな理由で仕事が進まないことは結構ありますよね。デジタルな身体性を活用したコミュニケーションで、そうした壁を簡単に乗り越えられるようになるかもしれません。

わかっていることは、せいぜい20%ぐらい。「身体感覚の辞書」をつくりたい

─今後はどのような実験や研究を予定しているのでしょうか。

犬飼:目下取り組んでいるのは、「身体感覚の辞書づくり」です。人々が持っている身体感覚と経済活動の関連性を調べたいと思い、ちょっと大規模な実験をチームで企画しています。

身体感覚は人によって違いますよね。同じ刺激に対する反応でも、過敏な人もいれば鈍感な人もいます。あるいは、世代によってデジタルなコミュニケーションに対してのとらえ方や感じ方も違ったりします。その感覚を共有しやすくするために、身体感覚のデータベースをつくろうとしているんです。そこに経済活動を連動させると、たとえば「なんとなく電子マネーには抵抗がある」みたいな主観的な感覚を、もう少し精緻に分析できるようになるかもしれません。

もう少し長期的な目標としては、触覚を実際にやりとりできるデバイスを開発したいです。現状では、触覚の再現にはヘッドマウントディスプレイや大がかりな装置が必要なので、それをなるべくスマホのような身近なデバイスでできるようにしたいなと。

─本日はいくつかの研究計画について教えていただきましたが、こうした「デジタル身体性」については現状どのぐらいのことがわかっているのでしょうか。

犬飼:まだ全然わかっていないに等しいかなと思います。20%もわかっていれば良いほうですよね。いまは、異なる分野の研究者同士で問題意識を共有して、これから実験や開発に着手していくぞという段階です。今日はだいぶ抽象的なお話になってしまったかもしれませんが、象徴的な事例や実験結果がひとつでも生まれれば、自分たちがやりたいことは伝わりやすくなるのかなと。「身体感覚の辞書」がそうなってくれたら嬉しいなと思っています。

ゲストプロフィール

  • 犬飼佳吾(いぬかい けいご)

    犬飼佳吾(いぬかい けいご)

    1981年、長野県松本市生まれ。北海道大学大学院文学研究科博士課程修了。博士(文学)。日本学術振興会特別研究員PD、エコール・ポリテクニーク(仏)研究員、大阪大学社会経済研究所講師を経て、現在、明治学院大学経済学部准教授。専門は行動経済学、実験経済学、ニューロエコノミクス。大阪大学賞、第3回ヤフー株式会社コマースカンパニー金融統括本部優秀論文賞受賞(行動経済学会)。実験社会科学の手法を用いて人の社会性の起源や近未来の社会変容のダイナミクスに迫る研究に取り組んでいる。

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  • 松本友也

    ライター

    松本友也

    ライター

    1992年生。広報ライティングからコラム執筆まで。おもな関心領域は東アジアのポップカルチャーや言語文化。実績に寄稿『アイドルについて葛藤しながら考えてみた ジェンダー/パーソナリティ/〈推し〉』(青弓社、2022)、寄稿『アイドル・スタディーズ 研究のための視点、問い、方法』(明石書店、2022)。

  • 小林茂太

    カメラマン

    小林茂太

    カメラマン

    1985年新潟県生まれ、写真家。 人間の身体的な行為や自然界における流れの積層に着目し、撮影した素材をその積層の断片として扱うことで写真作品を制作している。 主な作品では、アイスランドを2年続けて訪れた際に撮りためた作品「AURORA(2019)、「cairn」(2020)がある。 また、2度目に訪れた時の体験をもとに、その記録として鮮明に残っている写真を用いて、時間と共に薄れていく記憶のゆらぎを定着させた作品「stratum」(2022)がある。その他に、徳島で藍染の工程を撮影した写真を元に、「染める」という行為を印刷物として表現した作品「yoha」(2020)がある。

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