ハンガリー出身のアーティスト、セマーン・ペトラは、映像作品を通して移動や風景と人間の関係について探求し続けている。
ペトラにとって、フィクションの舞台となる実世界の土地を訪れる「聖地巡礼」は、フィクションの世界と物理的な現実を重ね合わせる行為であり、異なる次元の間に存在する境界を越えようとする試みでもある。そうした関心に基づくペトラの視点は、デジタル空間と実空間の融合に関心を持つ人々に多くの示唆を与えるだろう。

言語を超えた魅力を日本のアニメから感じた
―ペトラさんはどのような経緯でアートに関心を持って作品を制作されるようになったのでしょうか?
セマーン・ペトラ(以下、ペトラ):子どものころから絵を描くのが好きで、高校卒業後に生まれ育ったハンガリーを離れて、美術を学ぶためにイギリスのニューカッスル大学に留学しました。
2年生のときに受講したワークショップでAfter Effectsの使い方を覚えたことをきっかけに、少しずつアニメやデジタルコンテンツを制作するようになりました。そこで経験した、実写映像や断片的なアニメーションなどさまざまな種類の素材を使って1つの動画にまとめていくことが、現在の自分の作風につながっていると思います。

―ペトラさんの作品からは、アニメーションやビデオゲームなどの影響を感じます。
ペトラ:そうした分野への関心は以前からありました。最近は日本のアニメを中心に観ていますが、子どものときはハンガリーや旧ソ連の国のアニメーションを見ていました。特に興味深かったのは、ハンガリーのアニメ監督であるヤンコヴィッチ・マルセル(1941〜2021年)です。彼の作品は、ハンガリーの神話や民話をモチーフにしています。
ヤンコヴィッチ・マルセル監督の『SON OF THE WHITE MARE – Official Trailer (4K Restoration)
ペトラ:ビデオゲームについて言うと、たとえば『The Elder Scrolls V: Skyrim』(※)に出てくる風景はハンガリーを含めた東ヨーロッパの風景に似ているため、ゲームのなかに広がる空間に身を置いていると気持ちが落ち着くのです。イギリスに住んでいたころ、故郷が恋しくなると時々プレイしていました。
ほかに印象に残っているゲームは、ビジュアルノベルゲームの『Air』です。最初はアニメ版から入りましたが、原作のゲームも含めて本当に好きです。物語としては複雑な構成で、いま見ても解釈が難しい部分がありますが、それでも初めて見たときからずっと心に残る作品です。
『Air』の制作をしたブランド「Key」のなかでも特にシナリオライターの麻枝准さんの作品が好きで、彼の影響をずっと受けていました。
※2011年にベセスダ・ソフトワークスから発売されたRPG

―ハンガリーでも日本のアニメ作品をご覧になる機会は多かったのでしょうか?
ペトラ:初めて見た日本のアニメは手塚治虫の『ジャングル大帝』です。90年代の終わりには『美少女戦士セーラームーン』がテレビで放送されていましたが、当時はそれが日本のアニメだという意識はあまりありませんでした。
ハンガリーで放送される日本のアニメの多くは、フランスが日本から輸入したものを、さらにハンガリーがフランスから輸入するというケースが多かったので、日本でつくられた作品でも、フランスのアニメとして放送されたこともあったようです。
本格的にアニメに触れるようになったのは、映像配信サイトを通じてでした。そのとき、英語字幕つきのアニメを見ていましたが、当時の僕はまだ英語が得意ではなく、日本語も話せませんでした。音声も字幕も理解できなかったので、セリフの意味はわかりませんでしたが、作品の風景描写や、めまぐるしく移り変わる展開に魅力を感じました。

新海誠『秒速5センチメートル』から受けた影響
―ペトラさんの作品『About their distance』でも言及されていた新海誠監督のアニメ映画『秒速5センチメートル』も、同じ時期にご覧になったのかなと思います。初めて見たときはどのように感じましたか?
ペトラ:ラストシーンとともに流れる山崎まさよしさんの曲“One more time, One more chance”と描かれる情景の組み合わせが、まさに言語を越えた何かをもたらしてくれました。その曲は映画の10年前にリリースされた曲で、新海誠さんが楽曲使用の依頼をして快諾されたそうです。あの場面にはあの曲が最もふさわしいと感じます。
『秒速5センチメートル』を見たとき、僕も主人公の貴樹が栃木に向かうシーンで登場した両毛線の電車に乗りたいと強く思いました。じつは初めて日本を訪問したのもその影響です。
『秒速5センチメートル』の予告(FilmarksのYouTubeより)
ペトラ:先ほどお話ししたワークショップのあと、アニメーション制作を学ぶようになり、新海誠さんの影響も大きく受けました。実際に彼が描いた風景に身を置き、物語のなかで主人公が電車で移動したルートを追うために、大学の海外研修制度を利用して日本に渡りました。
当時は、アニメ聖地巡礼に関する英語の情報がほとんどなく、日本人のブログをGoogle翻訳で読みながら情報を集めたり、新海誠さんの美術背景集などからモチーフとなった沿線のルートを調べたりして、ようやくその場所に辿りつけたんです。

―作品の舞台になった場所を訪ねた時点で、すでにペトラさんの頭のなかでは『秒速5センチメートル』の物語と実際に目でご覧になっている風景が重ね合わさっている状態になっていますよね。そうした体験がその後の創作に影響を与えたのでしょうか?
ペトラ:まさにそうです。両毛線のルートを辿ったときや、代々木の踏切を訪れたとき、初めて日本に来たのに「ただいま」と言いたくなるような、不思議な気持ちになりました。物語に描かれる主人公の記憶が、自分自身の記憶と重なった瞬間でした。
見る人の記憶とイメージと重なり合う風景
―ペトラさんの作品『オープニングズ !!!』『About their distance』にしばしば登場するキャラクター“Yourself”について教えていただけますか?
ペトラ:大学時代、アニメーション制作を学び始めたころ、自分が本当にアーティストになれるのか自信が持てず悩んでいました。そんなとき、自分を元気づけるために描いたのがYourselfです。当時、未来はこうありたいと思って、自分を模して描いたキャラクターです。未来の自分と話している漫画のシーンは心の支えになっていました。
それからしばらくして自分で映像をつくり始めたときにYourselfを登場させるようになりました。それ以降いまに至るまでYourselfとは長い付き合いになっているわけですが、現在はYourselfが自分のアバターであると同時に、自分とは別のキャラクターでもあるのだと感じています。
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―Yourselfはペトラさんであると同時にペトラさんではない存在でもあるし、作品に登場させることで1つのシーンのなかに異なる視点を同時に存在させる面白さがありますね。
物事には、たとえば「これはコップです」と言い切るように、何かを決めて固定することでほかの可能性を消してしまう側面がありますが、そこで置き去りにされた別の可能性も残したいという気持ちもあったりします。だからこそ共時的に複数の視点や風景のレイヤーを存在させる表現をされているのかなと思いましたがいかがでしょう。
ペトラ:アバターについても同じように可能性を狭めてとらえてしまう人が多いですよね。たとえばゲームなどでプレイヤーに操作されていない状態にあると、そのアバターは存在せず、操作しているときにだけ現れるものだとか。
でも僕としてはそう思いたくないですね。存在せず消えてしまっているというよりは、ただそのときの人間には認識できない状態になってしまうというほうがより正確かなと思います。
―目には見えないものに対しても可能性を残すということは、風景を捉えるときの視点にも通じるのではないかと思います。ペトラさんは風景をどのようなものだととらえていらっしゃいますか?
ペトラ:自分にとって風景に関する最も重要な点は、海や山といった壮大な風景を見るときに、それらを本当に理解できるのかということだと思います。
たとえば富士山を見たとき、それが物理的にそこに存在しているということが頭では分かっていても、その実感が湧かないことがあります。風景を見ると、自分の記憶や先入観や考え方、さらには読んだ本に描かれていたイメージなどのすべてがその風景に重なります。
つまり主観から離れた風景を見ることが人間にはできないのだと思いますし、そうした理由から自分の限定された認知よりも大きいものとして風景を作品のなかに登場させています。


車窓からの風景から機械とともに人間が生きることを考える
―ペトラさんの作品からは移動に対する関心が感じられます。
ペトラ:人が電車に乗る主な目的は、ポイントAからBまで移動することですが、電車に乗っている時間はビデオゲームでいうローディング状態で、ポイントAでもBでもない中間領域にあります。
クィア評論家のホセ・エステバン・ムニョスは著書『Cruising Utopia: The Then and There of Queer Futurity』で、ユートピアや純粋にクィアな存在がまだ存在していないことを前提とし、到来していない未来や新たな生き方を見つめて動き続けることで、ユートピアの可能性が生まれるとしています。
ですから、僕の作品でもつねに移動し続けることで、新たな場所に辿り着く可能性や、場合によっては途中で目的地が変わってしまう可能性も示唆しています。

ペトラ:風景と移動の話から想起したのは、ヴォルフガング・シベルブッシュ(1941〜2023年)という学者が語っていたことです。本来生身の人間が電車と同じ速度で移動することはできないですよね。シベルブッシュが本を書いた時代、移動している電車のなかから高速で風景が移り変わるのを見ることは、人々を落ち着かない気持ちにさせるものだったそうです。
だから、自分の膝のうえにある本などに意識を向けるために電車のなかで読む本という需要が生まれて駅で本が売られるようになったそうです。そのエピソードが僕のなかで印象に残っていました。走る電車の車窓から風景を眺める行為は機械的な速度で風景を見ているということで、いわば、自分も半分、機械化している状態なのかなと。


―たしかに乗り物の発明は人間の視点を大きく変えてきましたよね。
ペトラ:公共交通機関である電車は広く人々に使われてきましたから移動と風景を考察するテーマになりやすかったのかもしれません。作家のエバン・カルダー・ウィリアムズの『Shard Cinema』という本では人間が機械とともに生きることについて比較的早い段階で言及され、工場で労働を担う人たちが直接機械に触れていたことも書かれていました。
彼らはあるとき急に、自分の身体感覚では理解できない速度で仕事をする機械とともに働かなくてはならなくなったわけです。それが当時の労働者にとってどのような経験だったのかは、なかなか想像できないですよね。
―最後に今後の計画や展望についてもおうかがいできればと思いますがいかがでしょうか?
ペトラ:いま制作しているのは映像作品です。タイトルは『border as interface』で国境や自分と他人の間にある境界線、人間と機械の間の境界線、そしてインターフェースについての作品です。僕はインターフェースに関心を持っていて、自分が触っている表面的な何かの正体を探りたいと考えています。
そのあとはイギリスにいるビジュアルアーティストのデヴィッド・ブランディと一緒にゲームを制作するという計画もあります。それは多分2025年かな。彼は大学生のころに一番影響を受けたアーティストなので、一緒に作品を制作するのが楽しみです。

ゲストプロフィール
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Petra Szemán(セマーン・ペトラ)
Petra Szemán(セマーン・ペトラ)
1994年、ハンガリー・ブダペスト生まれ。アニメーションやビデオゲーム的な風景を用いて映像作品を制作するアーティスト。現実の生活がフィクションであるかのように体験される出来事を中心的なモチーフとする。作品では自身をモデルとしたキャラクター「Yourself」が主人公となり、さまざまなデジタル領域を横断しながら、それらの境界域やそこで発生する状況を探索していく。制作を通じて,オン/オフ・スクリーンを問わずフィクションで飽和しきった現代の風景のなかで、私たちの記憶や自己イメージがどのように形成されるのかを探求している。
- 関連リンク: https://www.petraszeman.com/
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- Instagram: https://www.instagram.com/petra.szeman
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高橋ミレイ
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